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ソシエテ・ジェネラルの沿革

ソシエテ・ジェネラル・グループのこれまでの歩みをご紹介いたします。

1864~1893年 ユニバーサルバンクの誕生

1864年 5月4日 勅令によりソシエテ・ジェネラル設立

企業家精神を共有する実業家と銀行家のグループにより、「フランスの貿易と産業の発展を支える」ことを目指して設立されたソシエテ・ジェネラルは、66-68 Rue de Provenceに最初の本店を開設しました。以前はモンテッソン侯爵夫人の劇場だったこの建物は、建築家のテオドール・ブロンニャールによって設計されました。彼は他にもパリに証券取引所(パレ・ ブロンニャール)と有名なペール・ラシェーズ墓地を手掛けています。ソシエテ・ジェネラルは、創業の年に早くもボルドーに支店第 一号を開設し、当支店がフランス全土に広がる支店網の先駆けとなりました。1865年にはパリ証券取引所の近くに最初のパリ支店を開設し、5年後にはパリに15支店、全国に32支店を展開していました。1871年、当時世界有数の金融センターであったロンドンに、初の海外支店が開設されました。

1873~1896年 大不況

1871年 フランス公債発行市場に進出

1870年の普仏戦争でフランスが敗北した後、講和に向けたフランクフルト条約には、フランスが3年にわたりプロイセン王国に戦争賠償金50億フランを支払うという規定が盛り込まれていました。政府が国債発行計画に乗り出した際、ソシエテ・ジェネラルは国から債券発行の承認を受けた銀行シンジケート団の一員として認められ、2回目の10億フランの引受に貢献しました。当時全ての公共財政に関与していたロスチャイルド銀行グループとのつながりで、この案件を獲得することができました。発行は大きな成功を収め、発行日前の購入申し込みは430億フラン近くに達しました。

1872~1893年 ペルーでの試練

欧州と北米が深刻な経済危機に見舞われていた時期に、ソシエテ・ジェネラルは南米への投資を決断しました。ペルー政府が、首都リマにとって重要だったカヤオ港の運営に当行を指定したことがきっかけでした。しかし、ペルーの政治不安やチリとの戦争、歴代政府によるたび重なる財務・法務契約の見直し、パートナーの経営破たん、さらに高潮も加わり、この投資は厳しい試練となりました。

同時にソシエテ・ジェネラルは、「世紀の契約」として知られ、のちに「グアノ事件」と呼ばれるようになる事案にも関わることになります。1869年、オーガスト・ドレフュスと名乗る実業家が欧州におけるペルー産グアノ(海鳥などの糞の堆積物で肥料となるもの)の販売独占権を獲得しました。計画では、3億6,500万フランの投資で再販価額6億2,500万フラン相当のグアノを購入する予定でした。この多額の投資に必要な資本を調達するため、ドレフュスはソシエテ・ジェネラルやその他のパートナーと協力しましたが、パートナー間やペルー政府との政治的、法的対立が響き、期待された利益享受ではなく損失を被る結果となりました。

1881年 ソジェナルの設立

1871年、プロイセン王国は、普仏戦争後のフランクフルト条約に基づいてアルザスとモーゼルを併合しました。当時、両地域での存在感が薄かったソシエテ・ジェネラルは、これを事業拡大の好機ととらえ、1881年にソシエテ・ジェネラル・アルザシエンヌドゥ・バンク(ソジェナル)を設立しました。

この新子会社はその後、1870年以前にソシエテ・ジェネラルがストラスブール、ミュルーズ、コルマールに開設していた支店群を継承しました。設立から5年後、ソジェナルはドイツでのソシエテ・ジェネラルの足場を固めるため、フランクフルトに支店を開設しました。さらに数十年後、ソジェナルはベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、スイスでの地盤強化に向け、Banque Suisse de DépôtsとFrancibankを含む他のグループ子会社を吸収しました。2001年、ソジェナルの事業網全体がソシエテ・ジェネラルに再吸収されました。

1894~1914年 事業拡大の時期

1896年 従業員積立基金の導入

1896年7月28日に設立された従業員積立基金(Caisse de Prévoyance)は、社員の給与からの差引分に取締役会からの割当金を加えた金額を原資としていました。この基金は、あらゆる等級の従業員とその扶養家族が退職時または死亡時に一時金を受け取ることを保証しており、11名から成る委員会が運営していました。委員会の内訳は、取締役1名、支店長または上層本部従業員4名、パリ従業員3名、フランス国内の従業員3名でした。

1896年5月26日 ダウジョーンズ工業株平均の創設

1900年 パリ万国博覧会

近代化と進歩を祝って開催された1900年のパリ万国博覧会は、19世紀の産業、技術、社会の進歩の最先端を紹介するものでした。ソシエテ・ジェネラルはこの博覧会の共同出資者として、資金面で貢献し、エッフェル塔近くのシャン・ド・マルス広場に「ブランチ・パビリオン」を設置しました。パリ万博には5,000万人以上が訪れ、大きな成功を収めました。

1901年 ロシアへの進出

ソシエテ・ジェネラルは1880年代からロシアに注目していましたが、当初は支店を置かずに、大手製造企業の事業拡大に資金を供与していました。その後、1901年にサンクトペテルブルクに子会社バンク デュノール(Banque du Nord)を設立しました。ほどなくこの新銀行は、シベリア横断、満州横断の鉄道沿線で確固たる地盤を築いていたロシア・中国銀行(Banque Russo-Chinoise)と合併しました。その結果、1910年2月にロシア・アジア銀行(Russo-Asiatique; BRA)が誕生し、ソシエテ・ジェネラルはインドと中国に支店を開設する機会を得ました。パリ本店は、商業銀行の専門性を活かして為替取引で成長し、両国間交易を資金面で支える重要な役割を担いました。

1903年 CASGの創設

社員の健康増進とチームスピリットの育成の場として作られたスポーツクラブのCASG(Club Athlétique de la Société Générale)は、成績重視の方針を掲げることで他社の社員クラブとは一線を画しています。当行の経営陣はCASGを、フランスと欧州で最高のスポーツチームに匹敵するクラブにするという強い信念をもっていました。

CASGはすぐに世界有数のクラブに成長し、所属アスリートはオリンピックで数個のメダルを獲得したほか、サッカーやラグビーの大会、自転車競技で優勝しています。また、ソシエテ・ジェネラルはパリのジャン・ブワン・スタジアムなど、多くの施設を財政面で支援し、フランスのスポーツ・インフラの発展に重要な役割を果たしました。

1911年 Bonnot Gangによる銀行強盗

1910年は、Bonnot Gangによる一連の銀行強盗が始まった年でした。ソシエテ・ジェネラルも強盗団の標的となり、1911年にパリのオルドネ通り(Rue Ordener)支店が狙われ、集金担当行員が大けがを負いました。数カ月後の1912年3月25日には、シャンティイ(Chantilly)支店が襲われ、社員2名が犠牲になりました。その数週間後に強盗団の構成員全員が死亡または逮捕され、本件が最後の銀行強盗事件となりました。

1912年 新しい本店

1912年、ソシエテ・ジェネラルはパリ・オペラ座ビジネス地区の29 Boulevard Haussmannに本店を開設しました。建築家のジャック・エルマン(Jacques Hermant)は既存のファサードを残し、その背後にすばらしい世界を創り上げました。ガラスと金属を使ったアールヌーヴォーのインテリアは、「フロマージュ(チーズ)」として知られる銀行ホールと、建物中央部にまっすぐ日光が差し込むガラス張りのドームを特徴としています。現在も日常業務が行われているこの本店が誇る多くの部分は、国の歴史的建造物に指定されています。また、毎年9月の「フランス国家遺産の日」には一般公開されているほか、美術展会場としても使われています。

1914~1945年 危機の世界の事業経営

1915年 国債の発行

1914年8月11日、フランスはドイツに宣戦布告しました。秋までに両軍とも弾薬と食糧をほぼ使い果たしました。戦争は開戦時の予想より長引くことが明らかになり、財源の問題がきわめて重要になってきました。フランス中央銀行と英国からの融資では賄えず、フランス政府は戦時国債発行の検討に入りました。最初の国債発行は1915年11月16日に実施されました。ソシエテ・ジェネラルも全面的に参加し、「ソシエテ・ジェネラルの国債を購入して子どもを戦争の恐怖から守ろう」といったスローガンが書かれた象徴的な宣伝ポスターを多く作成しました。300万人のフランス人が150億フラン相当の国債を購入しました。その後も「ピースローン」として知られる1919年の発行を含め、4回の国債が発行されました。最終的に、国債発行で戦費の52.7%が賄われました。

1921年 革新的発想:実務研修

社員数の増加に伴い、有効な労働方針を策定する必要が出てきました。上層経営陣は、社員に技術研修を実施する中で研修が銀行の未来を左右するという重要な点に気づきました。このため、当行は会議を重ね、銀行業務に必要なスキルとノウハウに関連するテーマに取り組みました。同時に、財務諸表と融資契約の解釈、銀行取引、ファイナンスなどの分野を扱う研修課程を導入しました。さらに、これらの理論課程にロールプレイ演習を加え、より実践的な実務研修を推進しました。

1928年 CALIFの設立

ソシエテ・ジェネラルは、大手製造各社とともにCrédit à l'Industrie Française(CALIF)を創設しました。この新機関の目的は、信用割引や前払い金の形で銀行による中期的支援を提供し、輸出を促進することでした。結果、フランスの製造企業は、顧客に対してより長期の返済期間の提示ができるようになりました。この企業支援は、設備の購入、既存工場の改装や拡張、損傷建物の再建目的の資金供与も含んでいました。

1929年10月24日「暗黒の木曜日」

1929年10月24日の木曜日、ニューヨーク証券取引所が機能不全に陥りました。株価が急落し、投機筋は先を争って持ち株の全てを売り払おうとしました。市場ではわずか数時間で1,200万株が売られ、株価は30%暴落、昼までにはダウジョーンズ指数が22.6%下落しました。

「暗黒の木曜日」は、20世紀最悪の経済危機である「世界大恐慌」の始まりでした。これを受けてどの銀行も組織構造の合理化に着手しました。ソシエテ・ジェネラルは1930年代を通じて、支店網の再編、新しい労働慣行の導入、人員削減を実行しました。

1940~1945年 戦争の惨禍

第二次世界大戦中、連合国の爆撃と1940年、44年の軍事作戦が重なり、当行の建物127棟が被害を受け、32棟が半壊或いは全壊しました。ノルマンディーとブルターニュの支店は特に甚大な被害を受けました。1943年9月のナント空爆はソシエテ・ジェネラルにとって壊滅的な打撃となり、地元の責任者と社員1名が死亡しました。

1945~1972年 「守護天使」の銀行

1948年 サマーキャンプ

ソシエテ・ジェネラルは、1945年に国有化された後、1948年に社員の子どもたちを対象とする初のサマーキャンプを開催しました。労使評議会は1947年12月にリヨン近郊のラ・バティコリエール(La Baticolière)の地所を取得し、その後、この邸宅と5ヘクタールの庭園は毎年、6歳から14歳までの子どもたちが夏休みを過ごす場所となりました。8歳以上の児童には男女別のキャンプが、各1回ずつ開かれました。1969年、同国ロット地域のモンカブリエ村で新しい、より近代的なキャンプ場がオープンしました。

1962年 アフリカのネットワークを子会社化

チュニジアは1956年、ギニアは1958年、サハラ以南アフリカの他の国々は1960年、そして最後にアルジェリアが1962年に独立しました。この時期はフランスの旧アフリカ植民地の独立が相次ぎました。これらの新しい独立国の法律に基づき、ソシエテ・ジェネラルはアフリカ事業において、支店網を子会社のネットワークに変更しました。例えば、地元政府および他の国際的な銀行との提携で1962年11月に設立したコートジボワールのソシエテ・ジェネラル・ド・バンク(Société Générale de Banque)も子会社化しました。セネガル、カメルーン、モロッコでも同様の動きが続きました。

1964年 新商品:Sogévar SICAV

1963年9月20日に施行された法律により、オープンエンド型集団投資スキーム(Sociétés d'Investissement à Capital Variable;SICAVs)の創設に向けた道が開かれました。この組織は株式投資のリスクと利益を共有することを目的とし、ソシエテ・ジェネラルはその先陣を切って1964年2月14日、Société Générale d'Épargne et d'Investissement(Sogévar)を設立しまし 
た。Sogévarは、フランス財務省から承認を受けた最初の法人の1社でした。1991年、同社はSogé Europe Actionsとなり、欧州株式に特化しました。11年後、社名をSogéactions Europeに変更し、2008年1月31日までに5万5,000人の小口投資のお客さまのために6億900万ユーロを運用しました。

1966年 ドゥブレ銀行法

フランスのミシェル・ドゥブレ財務相は、銀行業界の規制を近代化しようと大規模な改革に取り組みました。

1966年6月16日の銀行業法は、預託銀行と企業向け銀行の垣根を低くし、フランス全土での支店開設を可能にしました。ソシエテ・ジェネラルはこの機会を即座にとらえ、様々な金融関連会社を設立し、リース等の分野で市場トップの地位を確立しました。

1969年 ノエル・パスキエ(Noël Pasquier)のロゴ

ソシエテ・ジェネラルは当初からよく「SG」のイニシャルで識別されました。伝統的な書体のこの2文字が銀行の正式文書に印字され、企業イメージを示すものとなりました。1950年代にはSGのイニシャルの他にフルネームを使うものなど、多くのバージョンが使われましたが、すぐにこうしたビジュアルイメージの統一が必要となりました。

1969年、当行は新しいロゴのデザイン・コンペを行いました。優勝したのは、こげ茶とベージュ色で丸の中に逆らせん模様を描くという、大胆なデザインを提案した映像アーティスト、ノエル・パスキエでした。キネティックアート(動く芸術)の影響を受けたこの新しいロゴは常に動いているように見え、また、「打ち出の小槌」も意味します。パスキエのロゴは、4度の進化を遂げながら15年以上使用されました。1983年には「ローズマダー(セイヨウアカネ)」の赤とアイボリーの色が採用されています。パスキエのロゴは1986年まで使用され、2色はソシエテ・ジェネラルのビジュアル・アイデンティティの中に生き続けました。

1971年 ソシエテ・サントラル・ド・バンク(Société Centrale de Banque)の設立

1920年から40年にかけ、フランスを本拠地とするCrédit Foncier d'Algérie et de Tunisie(CFAT)は国内上位10行の一つでした。北アフリカに広く支店網を築いたCFATは、サロニカ銀行の経営権 
を取得した後、地中海東側沿岸諸国へと進出し、周辺一帯で事業を拡大しました。アフリカの植民地で独立運動が成功した後、同行は1963年、名称をソシエテ・サントラル・ド・バンク(Société Centrale de Banque)に変更し、その8年後、ソシエテ・ジェネラル・グループに加わりました。

1973~1997年 近代…試練のとき 

1973年 第一次石油危機

1980年 「Caisse Éclair」端末

情報革命は、事務処理の管理方法を大きく変え、カスタマーサービスの大幅な改善につながりました。ソシエテ・ジェネラルは、 急速に変化する技術革新のペースに迅速に適応しました。エクス(Aix)とティジュリー(Tigery)に高度なデータセンターを設置したのを始め、カルトブルー(Carte Bleue)と呼ばれる決済カードなどの新商品を揃え、現金自動預払機(ATM)のネットワークを拡充しました。そうしたイノベーションの一つが「ケース・エクレール(Caisse Éclair)」(インスタントバンキング)端末機です。これらの行内ATMは、営業時間内であればカウンターに並ばずにいつでも現金を引き出せる、当行のお客さま専用の端末機でした。第一号端末機は1980年9月にサービスを開始しました。5年後、ソシエテ・ジェネラルはミニテル(Minitel)ベースのサービス、ロジテル(Logitel)を提供し始め、お客さま向けオンラインバンキングを始めた最初の銀行となりました。

1987年 民営化

1986年は、フランスに民営化の第一波が訪れた年でした。ソシエテ・ジェネラルは、リスク引当比率、自己資本および生産性に反映された健全な財務内容を理由に、早くも1987年に民営化の対象に選ばれました。同年6月27日、パリ証券取引所でソシエテ・ジェネラルの全株式(172億フラン)が売り出され、同年7月29日に民営化が発効しました。

1988年 「ソシエテ・ジェネラル事件」

すべては1988年、株式市場で当時フランス最大のプライベートバンキング・グループに成長していたソシエテ・ジェネラルの株式が異常な動きを示したことから始まりました。10月19日から20日にかけて540万株以上の株式が譲渡され、懸念はピークに達しました。10月24日、マルソー・アンヴェスティスマン(Marceau Investissements)の責任者、ジョルジュ・ペブロー(Georges Pebereau)が、ソシエテ・ジェネラル株式の9.16%を所有していると発表しました。

買収家らが考えた金融取引は持株会社の承継であり、多くの関係者をあらゆる段階で巻き込むものでした。しかし、計画に参加する新たな投資家を納得させるためには随時承継の話をする必要があるため、真実は最終的に外部に洩れました。投機家らは自己勘定で密かに購入していました。

不正取引容疑が最初に表面化したのは1989年でした。フランス証券取引委員会(Commission des Opérations de Bourse、フランスの独立金融市場規制機関)は2月1日に調査を開始し、株式投資の一 
部がインサイダー取引の可能性を如実に示していると表明しました。すでに「Affaire de la Générale(ソシエテ・ジェネラル事件)」として知られるようになっていた事件は、スキャンダルの様相を呈し始めました。調査結果とソシエテ・ジェネラルの対抗措置が功を奏し、ジョルジュ・ペブローの計画は阻止されました。

1990年5月30日、検察庁はインサイダー取引の予備審問を開始し、1990年から93年にかけて11名が起訴されました。

1990年 新しいロゴ

1986年以降、ロゴのなかったソシエテ・ジェネラルは、新しいビジュアル・アイデンティティの構築に着手しました。

その結果、赤と黒の正方形が採用されました。完全な正方形は、バランス、強さ、安定、正確さを表しています。バランスは、正方形が均等に2分割された形で表現されています。上部の明るい赤に、下部の黒の正確さと安定を対比させました。この対極を和らげるのが、中央部分の白線であり、開放性を示しています。幅広のデザインは当社の柔軟性と適応力を表わしています。

新しいロゴはきわめて高く評価されました。2007年にフランスのCSA(視聴覚高等評議会)が実施した調査によると、回答者の82%が文字のない赤と黒のロゴに見覚えがあると答え、74%近くがそのロゴからソシエテ・ジェネラルを連想しました。この驚くべき結果により、当社はマーケティング用語でいう「非助成想起(unprompted recall)に関して、フランステレコム、ナイキの旗艦ブランドに続く3位に選ばれました。

1997年 クレディ デュ ノールの買収

ソシエテ・ジェネラルによるクレディ デュ ノール グループの買収契約は、1997年3月10日に締結されました。買収額は22億フラン(3億4,000万ユーロ)でした。リモートバンキングなどの技術革新は膨大な開発コストがかかり、このコストを吸収するには十分な顧客基盤が必要でした。結果、ソシエテ・ジェネラルは買収による成長を重視するようになりました。当社が選んだのは、多くの地域銀行で構成され、健全な財務内容と積極的な営業方針をもつクレディ デュ ノールでした。この買収によりソシエテ・ジェネラルのリテールバンキング部門は強化され、クレディ デュ ノールの専門性と広範な支店網を足がかりにさらなる成長を実現しました。

1995年 本部機能がヴァルド・フォントネーとラ・デファンスに移転

それまで約50カ所に分散していた本部機能が、パリの東西2カ所の中心地に集約されました。一番目に選ばれたのは首都パリの金融の中心地で、公共交通の便利なラ・デファンスで、2番目は、すでに主要なビジネス地区になっていたヴァルド・フォントネーが選ばれました。
本部機能の集約は、部門間の結束を強めたほか、労働環境の改善と経費削減につながりました。グランダルシュ(新凱旋門とも呼ばれる超高層ビル)に近いラ・デファンスの建築基本計画は、当時最も前衛的でありました。東にはニーマイヤーⅡビル、レ・オリンピアドゥ・ビル、4棟のペリヴァル(Périval)ビルが一体となり、機能的な景観が生み出されました。

1998~2009年 岐路に立つ

1998年 国際リテールバンキングの発展

1998年、当グループは、フランス国外のリテールバンキング業務を手がけるBanque de Détail hors France Métropolitaine(BHFM)を設立しました。これは成長に向けた主な戦略的柱の一つをさらに強化しようというグループの姿勢を示しており、地元銀行の買収を通して、ソシエテ・ジェネラルのグローバルな地位、特に東欧とアフリカでの地位をさらに強固なものにしました。
12拠点、6,700人の社員で出発した国際リテールバンキングはその後、急速に事業基盤を拡大し、15年後には消費者金融を含め、世界37カ国に3,900支店、6万3,000人以上の社員、1,370万人のお客さまを抱える事業へと成長しました。買収した企業にはルーマニアのBRD、チェコ共和国のコメルチニ バンカ(KB)、ロシアのロスバンクが含まれています。

1999年 BNPによる買収計画

パリバとソシエテ・ジェネラルが合併準備のさなかにあった1999年3月9日、BNPが両行の株式公開買付けに乗り出しました。パリバの8株についてBNPの11株、ソシエテ・ジェネラルの7株についてBNPの15株を交換するという提案でした。金融市場評議会(CMF)はこの二重提案は受け入れ可能との評決を下し、8月末に最終判断を行うと発表しました。BNPはパリバの経営権を獲得しましたが、ソシエテ・ジェネラルを吸収するための入札は諦めざるを得ず、ソシエテ・ジェネラルは独立を維持しました。BNP、パリバと並び、ソシエテ・ジェネラルは、フランスと世界の巨大銀行誕生をめぐる熾烈な株式市場での戦いにおいて主役を演じたのでした。

2002年 ユーロ誕生

フラン、マルク、リラ、ペセタが消えた…2002年1月1日深夜をもって、ユーロは、欧州ユーロ圏12カ国、3億人が使う単一通貨となりました(2014年に18カ国に拡大)。銀行その他の金融機関は2001年7月1日からユーロ建ての小切手帳を発行し、2002年1月1日からは紙幣とコインの流通に参入しました。銀行にとって3,000億フランの現金交換は大きな課題でした。数ヶ月間以内に、2万7,000トンの貨幣と紙幣を保管する必要があるうえ、セキュリティを強化し、小売業者に新紙幣を供給し、ATMや自動販売機(コーヒーマシンなど)の稼働を継続させ、決済端末を調整する必要がありました。

同時に、企業と個人のお客さまへの情報提供も重要な使命でした。ウェブサイトやパンフレット、説明書や会議など、あらゆる手段でユーロへの移行を説明し、社員とお客さまのサポートに当たりました。

2008年 ケルビエル事件

2008年1月24日、ソシエテ・ジェネラルは、トレーダーの一人が所定の上限額をはるかに超える取引を行ったため多額の損失を被る可能性があると発表しました。トレーダーのジェローム・ケルビエルは、株式指数先物に大量の自己勘定を積み上げ、関連の市場取引を隠ぺいしました。彼は2007年より収益性の高いポジションを積み上げていましたが、関連ポジションの規模とその損失リスクの規模を隠していました。個人的利益を裏付けるものはありませんでした。当局は2009年1月26日に最終的に捜査を終了し、2010年10月5日、パリ刑事裁判所は、「背信行為、ITシステムへの虚偽のデータ入力、文書偽造」の罪でジェローム・ケルビエルを有罪としました。判決は禁錮5年、うち執行猶予2年に加え、ソシエテ・ジェネラルに損失額および利息として49億ユーロを支払うよう命じました。2012年10月24日、控訴審で被告人への判決は支持されました。ケルビエルはこの判決を不服として上訴し、現在、フランス最高裁判所が審理しています。

2008年 リーマン・ブラザーズの破たんとサブプライム危機の始まり

2008年9月15日、米投資銀行のリーマン・ブラザーズが破産申請を行い、いわゆるサブプライム危機のきっかけとなりました。米国の株式市場は大幅に下落し、その余波は世界中の株式市場に広がり、1年前にすでに始まっていた世界金融危機に拍車をかけました。ソシエテ・ジェネラルはケルビエル事件に揺れていましたが、この環境下でも切り抜けることができました。2008年12月にフランス政府から融資を受けましたが、1年以内に全額を返済しました。

2008年 トゥール・グラニット(Tour Granite)のオープン

Tour Graniteは、2008年12月15日にラ・デファンスのビジネス地区に開業しました。高さは184メートルで、建築家のクリスチャン・ド・ポルザンパルクが設計し、高層ビルとしては初めて、フランスの環境性能評価ラベルであるHQE(Haute Qualité Environnementale)の認証を受けました。

当社のサステナビリティ戦略の一環として設計されたTour Graniteは、グループのカーボン・ニュートラリティ(二酸化炭素排出量ゼロ)プログラムへの取り組みを象徴しています。ソシエテ・ジェネラルはプログラムの開始に当たり、2012年までにCO2排出量を一人の入居者あたり11%削減し、気候変動対策を自社の環境方針の柱に据えると発表しました。この目標は、各事業部門がその排出量に基づいて支払った内国税の収入をもとにカーボンクレジットを購入する形で達成しました(ロスバンクを除く)。グループの環境効率を改善するため、また、ソシエテ・ジェネラルの「エクエーター(赤道)原則」への取り組みに基づき、2012~2015年の期間についてさらに積極的なプログラムを採択しました。このプログラムでは一人の入居者あたり26%の削減を目指します。

2009~2014年 変革期

2009年 社会的責任

2009年、ソシエテ・ジェネラル・グループは、リスクメトリクスを専門にしているキャピタルコム社より、ダイバーシティ、情報処理及びその質のカテゴリーでフランスの株価指数CAC 40の首位に選ばれました。

ダイバーシティ委員会がグループの方針策定と目標設定、フランスで締結された職場での平等と障害をもつ社員の雇用に関する協定、社会におけるモービリティ、チームの国際化などに取り組んでいます。2005年、ソシエテ・ジェネラルは職場における男女平等に関する協定に調印し、2007年に「Egalité professionnelle(職場での平等)」の認証が付与されました。当社の「ミッション・ハンディキャップ」プログラムは毎年、採用者を倍増させる計画です。「健常者」の雇用枠以外から社員を採用するために開発された採用プロセスは2007年、フランスの反差別および平等推進機関HALDEの承認を得ました。

銀行業界では独特なスキームである「マネジメントコース」では、初めて管理職に就く専門技術社員を対象にしています。この種の社員向け研修は1921年に導入しました。また、グループの経営文化は、有能な管理職をグローバルに発掘し育成するようになりました。

2009年 企業メセナ

2009年2月11日、ソシエテ・ジェネラルはその文化支援方針により、フランスの「グラン・メセナ」メダルを受賞しました。クリスティーヌ・アルバネル文化・コミュニケーション大臣により授与されたこの賞は、フランス内外における当社の芸術・音楽振興への取り組みと貢献が評価されたものでした。

1995年から開始したコンテンポラリーアートの収集は、若手から世界で活躍する著名作家まで、幅広いアーティストの作品を対象としており、年々厚みを増しています。国内外の美術館キュレーターに選ばれた一部の作品は、ソシエテ・ジェネラルが支援する美術展に貸与されています。また、美術展の終了時に寄付される作品の購入も行っています。

1987年以降、ソシエテ・ジェネラル音楽メセナ財団(MMSG)は、クラシック音楽の分野で多くのプロジェクトの成功と発展に寄与してきました。こうした活動には各種国立アカデミーの奨学金、室内楽演奏会、合唱曲や交響曲のコンクール、音楽祭等の支援、作曲家からの制作依頼、有能な音楽家に貸与するための楽器の購入等が含まれます。ソシエテ・ジェネラルは2006年に再開した「サル・プレイエル」コンサートホールの主要後援者です。

2010年 ソシエテ・マルセイエーズ・ドゥ・クレディがクレディ デュ ノール グループに加わる

ソシエテ・マルセイエーズ(SMC)は1865年に創業し、地域経済と国際商取引に資金を提供する商業銀行として出発しました。1909年に預金受入業務を開始、フランス南東部で支店網を拡大した後、1919年以降に北アフリカに進出しました。 その時点で当該地域に強固な地盤をもつ大手地方銀行に成長していました。クレディ デュ ノール グループに加わったことで、SMCは、今後も強固な地域ブランドとお客さまとの親密な関係という強みを維持していきます。

2010年6月 「アンビションSG 2015」変革プロジェクトの始動

「アンビションSG 2015」は、社員の質の高さと熱意でお客さまから選ばれる「リレーションシップ・バンク」になることを目指す、ソシエテ・ジェネラル・グループの変革計画です。

アンビションSG 2015は、当社のすべての事業部門、すべての社員が参画する一連の事業部門の枠を越えた全社プロジェクトです。柱となる分野は4つ、お客さま、業務モデル、社員、ブランドイメージです。

2010年 アムンディの買収

2011年8月 ユーロ圏危機

2013年6月 「PEPS」- デジタルへの移行に関する社内協議

2013年5月21日から6月21日にかけ、ソシエテ・ジェネラルはPEPS(Projet expérimental participatif et stimulant)、すなわち「協働的、創造的、実験的プロジェクト」と呼ばれる新しい取り 組みを開始しました。デジタルへの移行をテーマに全社員から提案を募るためでした。

グループの社員は、デジタル革命について考え、社内のソーシャルネットワーク「SGコミュニティ」を使って、デジタルへの移行で影響を受ける3つの分野について独自の提案を出すよう求められました。3つの分野とは、カスタマーリレーション(お客さまとの関係)の変化、職場の変化、ITシステムへの影響でした。世界19カ国の社員から1,000件を超える提案が寄せられ、投票が行われました。2013年7月8日、プロジェクトのスポンサーである最高経営責任者のフレデリック・ウデア、コーポレートリソース・イノベーショングループ責任者のフランセーズ・メルカダル-ドラサル(Françoise Mercadal-Delasalles)、グループ広報責任者のキャロリン・ギヨーマンが出席したイベントで、上位10件の提案が発表されました。上位の提案の詳細はグループの責任者に配布されるデジタル「ホワイトペーパー」に掲載され、実施方法が検討されました。